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チェーホフの銃とマイノリティ

ことの発端

話は詳細は分からないのですが、ライトノベルにLGBTが登場しないのが差別であると主張した方がいたようで、それに対してチェーホフの銃によってすべてが説明できるとした話ですね。

ここでは、そのことに限らず、そもそも創作する上で「複雑な要素の受け取られ方」という話をしたいと思います。

チェーホフの銃とは

Wikipediaの説明がわかりやすいでしょう。

チェーホフの銃という表現は、ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ、と論じた、アントン・チェーホフ本人の言葉に由来している。

描写と捉えられ方

まず、LGBTに限らず、「読者が受け流すことができない特徴的な要素」というのはそもそも物語の一部を構成します。

例えば漫画だとします。別に物語の中で背景について細かく言及しないとしても、背景が下町風か、田園風景か、あるいは高層ビル立ち並ぶ風景かというのは、その物語の部隊がどのようなものであるかという認識に影響しますし、主人公たちはそういう空間の中で過ごしているんだなという風に感じるでしょう。 それは主人公たちの心情描写と同様に、その背景を想像させる機能をもちます。

つまり、それらは「あってもなくても良い」のではなく、「あると否応無しに機能する」のであり、その機能を望まないのであれば描くわけにはいかないのです。

背景にいる人物、いわゆるモブが老人ばかりである場合と、若者ばかりである場合、あるいは女性ばかりである場合と男性ばかりである場合、これらは「ただの背景」なのですが、場合によっては物語の整合性にすら関わってきます。

まして、特徴的な存在はそれだけの理由付けが求められます。

あなたが学園恋愛少女漫画を読んでいて、学校にいる生徒がモヒカンピアスばかりだとしたら、それを一切気にせずに読み進めることができるでしょうか? あるいは、授業風景の描写の中にゴスロリ少女がいたらどうでしょう。

モブの場合は特徴がないことが重要であり、髪型にせよ顔立ちにせよ、なるべく特徴がないように描くことになります。

小説の場合はもっと深刻です。なにせ、ちゃんと描写しなければないのと同じですから、

『突き飛ばした拍子に、多佳子は足を滑らせた。視界がくるりと回転する。重力を失って倒れる、と思った瞬間、タケシの力強い腕が多佳子の体を抱きとめた。それを見ていた赤いモヒカンと、青いモヒカンと、緑のモヒカンの男子生徒が冷やかすように口笛をひゅうと吹いた』

さあ、あなたはモヒカンに全く気を取られることなく読むことができるでしょうか。

「何を描くか」に読者は意味を求める

キャラクタに与える属性は重要であり、意味を持つ設定を与えれば、物語の上でそれを活かさなければ駄作への道を歩むことになります。 逆に言えば、「何を描きたいか」に基づいて描写が決まっているのであり、そこがブレないようにそのような要素は除去される、つまりデフォルメされるわけです。

実生活と違い、物語は非常に強くフォーカスされ、一部分を描写することになりますから、描写が入るということが持つ意味が重いのです。

ライトノベルで主要キャラクタの親が登場しづらいのもこれが理由でしょう。 親がいない設定にしなくとも、物語に親が登場すればそこに意味を求められます。 親がいる以上、自立をテーマにするなり、困難にぶつかったときに親の助言がブレイクスルーになるなり、あるいは物語の上での障害になるなり、なんらかの意味付けが求められ、ただ登場するだけというわけにはいきません。というよりも、恋愛モノだったりすると、「別に親を障害にしたいわけではないけれども、リアリティ上障害になってしまい、それを描写しないと矛盾だと取られる」という事態になりますから、書きたいものがブレてしまうくらいなら登場させないほうが良いということになります。

それをライトノベルの悪趣味だと言う風潮もありますが、その手法のパイオニアってPEANUTSですからね。

また、私の作品のうちバイクを主題にした物語においては登場人物は総じて裕福な設定である傾向がありますが、これはバイクで走り回らないとそもそも物語が回らないわけで、免許の取得から購入までも高額である上に、走り回るとなると維持費も非常にかかるバイクを題材にしているのに話が金策ばかりになるわけにはいかないからです。 とはいえ、一部には「アルバイトで稼いでバイクに乗っている」キャラクターや、「親に出してもらっている」というキャラクターも登場します。これらの設定は出した以上は回収する必要があり、前者のキャラクターはだからこそ乗る機会が少ないけれども、他のキャラクターのように走ることに特別な意味を見出だせなくても乗れるだけで楽しいという動機の表現に使用されていますし、また比較的新しい(そのキャラクターの年齢から自然な)バイクが主である中、発売当時は幼年であったような年代の不人気車に乗るという車両選択の動機としても表現されています。 後者に関しては、親との仲の良さ、高額な趣味に興じることへの後ろめたさなどの表現につながっています。

物語に置いて描写されるものはすべて舞台装置です。 無意味な舞台装置は読者を困惑させ、物語を霞ませるだけです。 それはLGBTどころか、そもそも物語の主人公は美男美女であるべきであり、主人公とヒロインのどちらかが美男美女でないのであればその格差についての描写が必要になりますし、これは題材としてはかなりポピュラーです。よっぽどの理由がなければ双方とも特に美男美女ではないという設定は採用できません。 ゲイのカップルやレズのカップルの作品は、それ自体にとても需要がありますから、もうその設定を採用した時点でジャンルになってしまいます。

わざわざ書いてないから、世界上ないわけではない

創作物では登場人物に設定としては存在するものの、描写は一切されないということは珍しくありません。 これは、作者がその人物の考え方や行動を考える上で、「らしさとは何か」という指標として存在するか、あるいは描写しようと考えられていたもののカットされたか、ということになります。

では描写されなければその人物の設定が消滅するかというとそんなことはありません。 多佳子とタケシの物語で口笛を吹いた男子生徒がモヒカンでなかったとしたら

『それを見ていた三人の男子生徒が冷やかすように口笛をひゅうと吹いた』

となり、ディティールがないために受け流すことのできる内容になりますが、描写されていないだけで、三人のうちの一人は元女性のトランスジェンダーで、一人は男性が好きなゲイで、もうひとりは幼女が好きなロリコンかもしれません。 もしも描写されていれば、相当に「濃い設定」であり、気を取られずにはいられないでしょう。しかし、仮にそうだったとしても、描写されなければあなたは知らないままです。しかしそれは、彼らの属性そのものがなかったことになるわけではありません。

これは現実でもそうです。 私には、世界でも私にしかないような特殊な思想や、信念や、能力や、好みや、経歴がありますが、世界中のほとんどの人はそのことを知りません。あなたもそれらを知っているわけではないでしょう。 現実世界でも私達は、たくさんの人がそれぞれにかかえている物語を知らずに生きています。そのほとんどは、あなたの物語の中で描写されることはなく、あなたは知らないままなのです。

作品は、オーダーメイドではないけれど

どのような作品が好みか、どうあって欲しいかという願いは人それぞれあるものであり、それ自体は尊重されるべきものです。

しかし、創作物というのは作者の自己満足とエゴの塊であり、そうした願望が叶えられないのは、その作者のエゴと読者のエゴが一致していないというだけの話です。

それでも楽しめるのであれば読めば良いし、楽しめないなら読まなければ良い、実にそれだけのことです。 創作物なんて、一生のすべての時間を費やしても追うことは到底不可能なペースで生まれていますからね。

ただ、物書きとしてひとつ言うならば、私達は物語を描く上で、ものすごくたくさんのことを考え、積み上げ、組み上げています。 それは、物語で表現したいことを表現するためであり、伝えるためであり、物語を物語たらしめるためです。 ですから、もし願望を聞き入れたとしても、物語が破綻してしまうかもしれません。 物語に、創作に真摯であるからこそ、叶えられない願いもあるものです。