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総合芸術としてのエロゲー

エロゲーは総合芸術です

「エロゲーは総合芸術です」っていう話をするとあんまり伝わらないので、皆様理解されてないんだなぁ、ととても残念になってしまいます。 エロゲーというだけで単なるポルノグラフィだと思われるのも残念ですし、この楽しみを味わえないのも残念に思われます。 もちろん、好き好きではあるのですけど。

ここでは、その意味をご説明しましょう。

総合芸術とは

総合芸術という表現は一般的には映画において用いられます。 これは、「物語」「映像」「演技」「音楽」の三要素が渾然一体となっているから、ということですが、これ自体はいささか映画を持ち上げすぎな言い方でもあります。

このような複合要素は映画の場合、どちらかといえば権利関係の複雑さによって表れ、作品としては映画というフォーマットに留まると考えられます。

ただ、そうした複合的な要素を持つ芸術、というのは他にもいくつかあります。

例えば舞台劇です。 舞台劇の場合、「脚本」「演技」「音楽」「音声」「演出」「光」という要素からなり、最終的には要素自体は映画にひけをとりません。

アニメーション作品も、同様に物語があり、元となる絵があり、それを動かす映像があり、声優という演技があり、音楽があり、映像に演出も含まれることも考えれば総合芸術と呼んで差し支えないでしょう。

エロゲーの場合もシナリオ、イラストレーション、演出、演技、音楽が渾然一体となっており、そうした複合によってなしうる総合芸術のうちのひとつと考えられると思います。

エロゲーのフォーマット自体は基本的には「人形劇+紙芝居」です。 表情づけや動きづけが可能なキャラクタに演技が乗り、要所で絵による表現が加わり、これを様々な演出(これは一般的には人形劇でも紙芝居でも存在しないもの)と音楽が彩ります。

ただ、創作者として見れば、エロゲーのフォーマットというのは、他にない独特のものです。

フォーマットにおける「特有の表現」

「漫画作品がアニメーションになると話が削られる」という経験はあるかと思います。

アニメーションの場合、理想的な描写を行おうとすると必要な労力と時間が現世で実現可能な量を越えてしまうため、実現可能な範囲で労力をかけることになります。 その結果、表現幅は制限されることになり、1枠15分から20分程度とはいえフルに表現力を行使することは難しく、どうしてもより少ない表現で時間の枠を埋めることになってしまいます。

さらに、仮に表現力をフルに行使したとしても、時間の枠の問題、作品として成立する時間の問題、労力と予算の問題が立ちはだかり、表現できる物語は限定的になります。一般的に、劇場版アニメーションはアニメーションとしての表現力をフルに使うようになっていますが、その長さとしては40分から2時間程度であり、「尺の問題」が発生します。

この「尺の問題」はアニメーションだけでなく、一般にドラマ、映画などでも発生するものです。 漫画や小説などは長期に渡って連載を続けることができるため壮大な物語を緻密に描くことが可能ですが、映像作品だとどうしても物語は、描写を省くか、物語を省くしかなくなってしまいます。長期に渡って放映されるアニメーション作品なども存在しますが、そのようなものはごく稀です。

一方、漫画では表現が難しく、アニメーションによって正しく表現できるケース、というのもあります。 例えば、笑顔で聞いているものの、気づくか気付かないかの一瞬表情を曇らせるようなシーンがあったとします。このような場合、漫画的な表現では同一構図の笑顔のコマと曇った表情のコマを貫通するように吹き出しを配置し、場合によっては曇った顔のコマの背景を暗くするなどの処理を行います。これによってこのセリフ中で表情を曇らせたことが伝わりますし、次のコマを笑顔にすれば取り繕ったことも伝わります。しかし、それが「どの程度のことだったのか」ということが分からず、そうした微妙な表情変化を細かく描くようなことは、漫画ではかなり困難です。

また、他の人には気付かないけれど言葉に棘が潜まれているというような状況は、フォントを変えたり、口元アップを描写したりといったことで表現しますが、これも声の演技にはかないません。

アニメーションのほうが「密なメディア」である分、労力さえかければより緻密な表現ができる一方で大きな物語は描きにくい、という状況が発生します。

それと比べると小説はより「雑なメディア」になります。絵によって表現できるほうが具体的であり、漫画と比べ読者の想像力に頼る部分が大きくなります。 絵の場合、同一作者のものであっても同一にならないのに対して、文章による表現ははるかに集約されるため情報量が減るのです。 例えば私が書いたこのフレーズ

振り返るとそこには女が立っていた。涼しげな焦げ茶の髪はやわらかな曲線で落ちて肩を下り、白く細い指が左肩にかかるバッグの紐に触れている。太陽の下で淡く明るい色の服が光をはらみ、まるで彼女だけがスポットライトを浴びているかのように存在感があった。小さな顔には細められてなお存在感ある目と、挑発的な薄い唇が乗り、振り返ったが最後目を離せそうになかった。

これは容姿の描写としては相当長い部類であり、多数のキャラクターが登場する作品でこれをやると鬱陶しいことこの上ありません。 ところが、これでどのようなタイプのキャラクターかというのは想像するのは結構難しく、文章の表現力の限界を感じてしまいます。 ライトノベルであれば大抵の場合キャラクターには絵が乗ります。挿絵のひとつもあればもっと明瞭であり、ここまで長い描写が毎度毎度必要になることもありません。 ちなみに、私は「目」「髪」「脚」「唇」に関する描写をすることが多く、人の容姿のどこを見ているかが明らかにされてしまいますね。

また、内容によってはそもそも当該フォーマットで描けないようなものもあります。

典型的には「日常系」と呼ばれる作品です。 近年はより幅広く使われるようになりましたが、基本的には特別な出来事が起きず、描写だけがなされる作品です。古くは「ワッツマイケル」とか、「サザエさん」(漫画のほう)もそうかな?

出来事の着眼点さえよければ漫画向きであり、連続性は切りたいため一般的には4コマ漫画の形式をとります。 終点を決めなくて良いのも漫画連載の良いところです。

また、近年の日常系作品の場合、「キャラクターの可愛さだけをフィーチャーする」というスタイルもあり、この場合漫画での表現はやや限界があり、動きや声が加わるアニメーションに最適化されたものだと言えます。

そのようなライトノベルも存在するため言いにくいですが、物語の描写に適した小説における日常系というのは、とてもつまらないものになります。そもそも、小説はキャラクター描写に対する適性はあまりありません。

エロゲーの表現特性

90年代にはエロゲーは「アドベンチャーゲーム」と「ノベルゲーム」のふたつのスタイルのどちらが良いか、という争いがありました。

旧来のアドベンチャーゲームについてはおいておいて、エロゲーにおけるアドベンチャーゲームは基本的にはキャラクターとセリフ枠によって進行し、セリフ枠ではセリフと主観における心情描写によって進行するもの、一方、ノベルゲームはキャラクター絵を含むグラフィックは「背景」であり、小説と同じト書きありで進行し、必ずしも主観で描かれるわけではないものなります。

アドベンチャーゲームの場合、常にキャラクターが表示されることになるためキャラクターとセリフ主体で、ノベルゲームの場合はよりじっくり物語を読ませるものになります。 当時は非エロのいわゆる「ギャルゲー」のほうが数が多く、こちらにおいてはアドベンチャーゲーム、というか「アドベンチャーパートを持つゲーム」が圧倒的に多かったのに対し、エロゲーにおいては拮抗しており、「ONE」及び「To Heart」のヒットからノベルゲーム優勢になりました。

この流れはサウンドノベルからのビジュアルノベルの流れなのですけど、別にリーフビジュアルノベルが元祖というわけでもなく、DOS時代からありました。

ここにおいて重要なのは、「当時はヴォイスはなかった、もしくはあってもパートヴォイスだった」ということです。 しかも、立ち絵に種類はなかったりして1キャラ1枚なんてこともありまして、表現力はほぼライトノベルと同等だったのです。

そのため、キャラクターの魅力表現が非常に難しく、作品に厚みを加えるのは重厚な物語でした。 このことからキャラクターの描写よりも出来事の描写に重きが置かれ、より突飛であったり衝撃的なシナリオを用意されることが多くなりました。 特に「MOON」から「ONE」にかけては「泣きゲーブーム」と呼ばれる、主人公またはヒロインが死んだり喪失したりすることで泣かせる、という流れを作り、以降ジャンルを越えて韓国ドラマブームや携帯小説ブームに至るまで、「人が死ねば泣けるだろ」みたいな作品が溢れる事態となります。

この頃に関して言えば、フォーマット特性はほぼ小説と同一であり、そもそも小説で代用可能な表現メディアであったといえます。 「そうだった」ことは非常に重く、この後に声優による演技が加わるようになっても、主としては艶演技が期待されるものであり、ポルノグラフィとしての品質が変化したにすぎません。 さらにいうと、その変化によって、従来官能小説のような描写重視だったエロシーンが、声優の演技に頼ったAVのような方向性にシフトした、ということは言えます。この傾向は現在においても変わらず、どちらかといえばエロ漫画の表現を文章化したような表現が一般的で、AVのようなリアリティとは異なる独特の、しかし声優演技に頼ったエロシーンが組まれるのが一般的であり、官能小説のような描写に偏ったエロシーンというのはまずお目にかかりません。

そして、その結果として「純愛モノが増えた」というのもあります。 官能小説のような描写でポルノグラフィとしての価値をもたせるには、どうしても普通の性交シーンではまるで足りず、描写の余地の多い過激なシーンを必要とするために、陵辱モノや痴女モノが一般的で、純愛モノでエロシーンも普通な作品におけるエロシーンはあってないようなものだったのですが、現在は相変わらずそうした作品のほうが割合としては多いものの、人気の高い大作と呼ばれるようなものに関しては純愛もののほうが一般的になっています。

で、私はそもそもしばらくこの手のゲームに触れていなくて、実際にプレイしたものとしては発売順でいうと「快刀乱麻 雅」(1999年)が最後で、次に触れたのは「ワガママハイスペック」(2015年)なので15年以上見ていなくて、中間であとからプレイしたものに関しても間くらい(2008年と2009年)のものなのでその変化過程について触れることはできないのですが、現在においては完全に固有な表現が可能なフォーマットになっています。

まず、以前からあった特性として「長い」というのがあります。 エロゲーの一般的なシナリオ量は2MBから4MB程度で、これは文庫本小説換算で10冊から40冊ほどにもなります。 実際に書いてみるとわかるのですが、「一冊分文章を書く」ってすーーーーっごく大変です。これを4MBと言われるとなかなかぐったりしますね。 しかも後述の通り状況描写の必要性が低いため、書く内容は小説よりもっと多いです。

さらに固有といえるものとして、表情や動きを表現する立ち絵が、さらに動きもすることで、アニメーションほど細やかではないものの、少なくとも文章による描写がなくともどういう状況か想像できる程度には視覚的な表現がなされます。 さらに、ここに声優による音声表現が加わりますから、キャラクターの魅力をじっくり表現することができ、なおかつ小説や漫画では表現できない、「ヒロインがそこにいる感覚」が生まれます。 これらは映像作品が持つ魅力ですが、映像作品の場合工夫によって非主観的に展開されることから、結果的には映像作品よりもより「ヒロインの存在感」を感じることができるようになっています。

そして、これを組み合わせられるものというのが他にないのです。

小説ですら記述困難なほどの長大な物語で、じっくりとヒロインの魅力や存在感を描いた上で、肌で感じた人物と世界で起きる出来事に没入できるわけです。

フルに活かせば最強のフォーマット

エロゲーのよさのひとつに、「最適な箇所を最適に表現できる」というものがあります。

例えば一枚絵。立ち絵では表現できない構図も表現できる自由なイラストレーションのことですが、非常に労力をかけ、一枚をじっくり観ることを想定したクオリティの絵というのはアニメーションでもできませんし、実写映像では表現できない画の描写もできます。

それでも不足であればアニメーションを挟むこともでき、そのアニメーションの手法も任意に選択し、あるいは使い分けることができます。

これによって通常のフォーマットからさらに表現幅を広げることができるわけです。 もちろん、他の映像作品同様に画面効果による演出も選択できます。

特殊なこととしては、「文字と音声を兼ねる」ものであるために、「セリフと異なる音声を再生する」というのもあります。 これは漫画表現における内心とセリフを吹き出しで使い分けるようなものに似ていますが、この手法は映像作品だと普通は選択できません。 さらに、部分的に「音声がない」「テキストがない」といった状況によってより深く印象づけることも可能です。

そして他のフォーマットでも可能であるにも関わらず使われないものとして、「音楽を効果的に使用することで、明示されない心情や背景を描写する」ということも行われます。 他のフォーマットで可能であるにも関わらず行われないのは、音楽の商業的価値が高すぎるためです。 そのため、アニメーションでもあくまで世界観を踏襲した主題歌にすぎませんし、よりメジャーなアニメーションや、映画、ドラマなどに至っては人気ミュージシャンとレーベルによるタイアップ曲にすぎません。

一方、エロゲーでは音楽が売上に影響する度合いが低く、音楽自体が大きく売れることもありません。 このため、音楽はあくまで作品の彩りという扱いになりますから、音楽事態が演出要素の一部として主題歌であっても劇伴のように作り込まれます。 そもそも、ドラマや映画においては劇伴がどういうシチュエーションでどのように使われるかということは打ち合わせられず、ざっとどのようなシチュエーションの楽曲かというリストに基づいて作られるのが一般的であり、対してエロゲーの劇伴は制作チームの一部として実際にシナリオや絵を見ながら作るのが一般的ですので、劇伴の劇伴としてのクオリティからして全く違います。

さらにいえば、音楽の販売を気にする場合、あまりにも複雑なトラックの曲は売れないため回避されますが、エロゲーの場合はそのような点を考えなくて良いため、非常に実力のある音楽家が好き勝手に最高の曲を作りたいがためにエロゲーに集う傾向があり、他では見られないほど高度で最高の音楽が、作品の一部として奏でられることになります。

付け加えるなら、限定生産版にサントラCD、あるいはヴォーカルCDが添付されることが多いため、ヴォーカルソングは劇中で使われる範疇を越えて作品の一部として作り込まれることがあります。 この場合、作品を注意せずにやっていては流してしまうものの、曲に耳を傾ければこの心情も深く伝わってきて感動することができ、後でサントラをきくと(置き手紙をよんだ時のように)さらに深く感動することができるわけです。

活かすのが大変な魅力的フォーマット、それがエロゲー

このように表現の余地が他に類をみないのがエロゲーであり、その分膨大な作業を抱え、ひとりでは構成できないという意味でも総合芸術らしいものです。

故にこそその表現を余すことなく使い切ることは非常に困難です。 これはどの芸術においても言えることであり、作品を構成すること自体は難しくなくとも、様々な要素を盛り込み、それらの要素が一切の無駄なく存分に活きる形に構成するのは非常に難しいのです。

そもそも単独の作業としてそれらが渾然一体となった「芸術」に昇華することも非常に難しいのに、多くの人が関わる総合芸術において、それぞれがそのような最高の仕事をした上で全ての人の意思と仕事が噛み合って一体の作品となる、というのは、もはや奇跡のようなものといえるでしょう。

もちろん、全てのエロゲーがそのような素晴らしいものであるとは言えません。 むしろ、それほどまでに高いレベルが実現可能であるからこそ、そうした稀有な作品は生まれづらいとも言えます。

そのような感動は小説でも生まれにくいもので、本好きな人なら分かるかと思いますが、「まぁまぁおもしろい小説」というのは月一冊くらいは見つかるものの、素晴らしい完成度と内容を持つ芸術品は読んでも読んでも見つからないものでしょう。 割合的には小説よりはずっと高いとはいえ、やはりエロゲーでも「まぁまぁおもしろかったけど、佳作かなぁ」みたいなものにもよく当たります。

だからこそ、私は「アオイトリ」や「Sugar*Style」といった素晴らしい芸術作品を絶賛しているわけです。 いや、好きなのは「Making*Lovers」なんですけど。

「エロゲーだから素晴らしい」わけではありませんが、特有の表現、魅力をもった「エロゲー」というフォーマット、それはそれで堪能してみませんか。